第9話 初めての海外進出 ― 中国編(後編)
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前回のコラムでは、ミライエが十数年前に挑んだ初の海外進出、中国市場での活動をお届けしました。
巨大市場に胸を躍らせ、上海での展示会や農場導入、現地での奮闘の日々。
しかしその先には、日本とは全く異なるスピード感と、過酷な営業スケジュールが待ち受けていました。
今回の後編では、問い合わせが雪崩のように寄せられる中で突き当たった厳しい交渉の現場、衝撃のコピー品登場、不利な契約を受け入れる決断、そしてそこから得た大きな学びを振り返ります。
果たして、この挑戦の結末とは?
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問い合わせは雪崩のように!
中国展開を始めると、有難いことに問い合わせの数は日本の比ではなかった。
日本の10倍ともいえる数で、とくに畜産関係からの相談が最も多かった。行政からも「地域として汚泥やふん尿処理で困っている」との声が多数寄せられた。現地での設置事例を専門誌に論文として投稿すると、そこからまた新たな問い合わせが押し寄せる。全方位対応はできないので、そこから条件に合う事業者を選び出し、さらに商談を進めるという流れができあがっていった。
“良い子”では通用しない。中国ビジネスの洗礼
しかし、そこで気付かされたのは日本市場との違いだった。
中国の案件はとにかく処理規模が大きい。当初は日本と同規模の案件を優先的に対応していたが、背景にある市場のスケールは桁違いである。さらに決裁スピードも早い。良いと思えばすぐ導入につながる一方、途中で競合が「技術以外の要素」を持ち込んで巻き返しを図ることもあり、苦労は絶えなかった。
特に中国特有の商慣習 ─ 資金回収の不透明さやアンダーテーブルな交渉 ─ にも直面し、決して一筋縄では進まなかった。まさに日本とは真逆の「スピード感と不確実性」が共存する市場だった。
その中で代理店からは、「さらに多く売るために、新しい販売形態で契約を結びなおそう」と持ち掛けられ、契約交渉が本格化した。
交渉の場は代理店本社。相手は社長だけでなく番頭格の役員まで勢揃いし、総力戦の構えだった。
対してこちらは、私ひとり。彼らはミライエの足りない点まで次々と指摘し、それを自社有利の材料として突きつけてくる。体力的にも精神的にも消耗される時間だった。
交渉を続ける中で、実感したことがいくつもある。
「海外で通用するためには、語学力よりも交渉力」
「しっかりと主張を行い、相手の攻めを押し返す力」
日本では、相手の話を最後まで聞くことが美徳とされるが、海外ではむしろ“良い子”でいても全く得をしない。言いたいことは、はっきり言うべきだ。
相手は時にとんでもない条件を突き付けてくるので、冷静に切り返さなければならない。今日の主張を翌日には反故にするなんてことも、よくあった。相手は「より良い商売の在り方」を最優先しており、こちらの気持ちなどは後回し。
最初は感情的に応戦してしまったが、それでは通用しない。この当時は帰りの空港の待合室で、「あの場面はこう切り返せばよかった」「今回のミーティングは6打数2安打」などと反省してばかりだった。
トドメは、コピー品の持ち込みだった。
ある日、代理店がコピー品をテーブルに置き、「自分で造ったらお前の会社より安くできたぞ」と言ってきた。その瞬間、会議室の空気は一変した。まるで「ミライエがいなくても商売できる」と圧力をかけるような空気だった。
当時の私は動揺し、不利に傾いた交渉を立て直すことができなかった。
不利な契約の決断の末に
最終的に大きな争点となったのは利益配分の方法だった。
明らかに不利な条件と分かっていながらも、1年以上かけて市場を開拓してきた努力を水泡に帰すわけにはいかない。社員や、紹介してくれた企業の方々を落胆させたくない気持ちもあったし、「もし花開けば」との淡い期待もあった。途中一度は交渉打ち切りを宣言したものの、最終的には契約を結ぶことに決めた。
ただこの時、自分の見通しのなさが本当に情けなく、また自分の甘さを痛感した出来事でもあった。
その後は代理店主導で営業が進んだが、営業範囲が広がると、技術的・営業的知見が多く求められるようになる。この頃にはミライエも国内事業が急伸し始め、多くのノウハウが集積し出していたが、ミライエに不利な契約だったためこちらが代理店を手助けできる方法もかなり限定的になり、当社から十分に支援できる形にはならなかった。
代理店も数年間は奮闘してくれたが、双方が期待したような利益には結びつかず、やがて事業は終息を迎えた。
これが、ミライエにとって苦い経験となった初めての海外進出の全貌だ。
追記:51対49の現実
交渉の世界では、よく「100対0ではなく、最高の勝ちは51対49だ」と言われる。
契約がどちらか一方に有利すぎると、契約後に相手側の協力が得られないからだ。契約はあくまで連携のスタート地点であってゴールではない。
だがこの時の私は、まさに0の側に立たされる痛みを味わった。失敗の悔しさは忘れられず、中国展開の挑戦も成功には至らなかったものの、後の海外交渉に臨む上ではかけがえのない訓練の場となった。
実は後年、別の海外企業との交渉でも、またコピー品を持ち込まれたことがある。
ただ、この時すでに技術は十世代以上進化しており、「見た目を真似しても失敗するだけだ。やりたいなら勝手にどうぞ」と突き放す余裕を持てた。この時は相手の方が折れてきた。こちらは、「代わりに、この数量を買ってくれたら大幅な値引きをしても良い」と提案して、大型の商談に結び付いた。
冷静に切り返すことができたのは、やはりこの時の失敗が教訓になったからだとつくづく思う。
(第9話 おわり)